銅は、私たちの暮らしを支える様々な分野で大きな役割を果たしています。日本伸銅協会は伸銅工業全般の進歩発展に貢献しています。

銅の歴史

銅の歴史

銅の発見

古代文明の発達は、石器時代・銅器時代を経て青銅器時代に入ったといわれています。石器時代には金属の存在は知る余地もなく、地表や川底に輝く鉱石 も特殊な石としか考えられなかったでしょう。しかし、西暦紀元前7,000年~8,000年頃、新石器時代人によって偶然に自然銅のかたちで発見され、人 類が初めて使った金属であるといわれています。

アプシル神殿に使われた銅管の一部

アプシル神殿に使われた銅管の一部

また、紀元前6,000年頃、西アジアのメソポタミア地域で緑色のくじゃく石、青色の藍銅鉱が大量に発見され、鉱石と金属を区別する技術も偶然ですが、木 材を燃料に生活していた際の炉壁などから金属が遊離することを知ったと見られます。その後、エジプトでは前5,000年頃の墓から副葬品として銅製の武器 や用具が出土されています。前3,800年頃、シナイ半島においてはスネフル王によって銅鉱石が採掘されたという記録や、当時のるつぼも発見されており、 鉱石からの銅精錬技術があったことを示しています。前2,750年頃のエジプトのアプシル神殿には、銅で作った給水管が使用された事実があり、これは銅を 薄い板にたたき出して、管にまるめて用いたものです。

カパーの由来

前3,000年頃、銅はキプロス島に多く産しました。銅の鉱床は大きく、価値がありましたので、島の支配はエジプト人、アッシリア人、フェニキア人、ギリシャ人、ペルシア人を経て、ローマ人へと委ねられ、ローマへの銅の供給はほとんどキプロス島からでした。始めはキプロスの鉱石と呼ばれていましたが、その後ただシプリゥム(cyprium)と呼ばれるようになり、更にシプラム(cyprum)、キュープラム(cuprum)と変わりました。これが英語のカパー(copper)の語源で、化学記号のCuはこのラテン語の最初の2文字をとったものです。

漢字の銅

金ヘンに同じと書く「銅」はどういう意味を持っていたのでしょうか? その昔、中国では金・銀・銅のいずれも「金」と総称して、必要ならば金を黄金、銀を白金、銅を赤金と区別していました。「銅」の文字は韻代(前1400~1027)の甲骨文字の中にはなく、春秋戦国時代の後半の文献に出てきます。金ヘンは金属というのはいうまでもありませんが、果たして同というのは「金によく似た輝きをしているから」使われたのでしょうか、または一説にある同は「筒」や「洞」と同じ意味で中が空洞で空気が通る、即ち坑道を掘って採掘した金属ということなのでしょうか? いずれにしても名は体をあらわす文字と言えそうです。

日本の銅

完形に近い富本銭

完形に近い富本銭

日本で初めて銅 が使われたのは紀元前300年頃(弥生時代)といわれています。日本における銅の歴史は、中国大陸から渡来したもので、当時は北九州を中心に銅剣・銅鉾・ 銅鏡など青銅器文明が栄え、その後、東日本に向けて広まっていきました。国内で銅鉱石を初めて産出したのは西暦698年(文武2年)で、因幡国(鳥取県) から銅鉱を朝廷に献じたと伝えられています。また708年(慶雲5年)に武蔵国秩父から献上された銅を用いて貨幣(和同開珎)がつくられ、年号も和銅と改 められたとなっています。最近、7世紀後半の飛鳥池遺跡から発見された「富本銭」はその鋳造が700年以前に遡ることが確認された他、遺跡からの溶銅の大 量出土は7世紀後半の産銅量が既に一定の水準に達していたことを物語っています。

以降も全国各地で各種の鉱物が続々と発見され、奈良朝および平安朝時代にかけては青銅の仏像や仏具・工芸品などが盛んに作られ、749年(天平21年)聖武天皇発願である東大寺大仏の建立で、銅の精錬・鋳造加工技術は著しい進歩を示しました。

室町時代にはいると中国・スペイン・ポルトガル・オランダなどとも貿易が開かれましたが、鉄砲その他の武器・貨幣・日常生活の器具等銅に関する需要が内外ともに旺盛となり、ことに江戸時代の寛文、元禄の頃銅は金銀にかわって長崎貿易の主力となりました。

世界一流の産銅国に

世界的に見て、新大陸(米国)の銅山がいまだ多く開発されていなかった頃の1697年(元禄10年)の銅の生産高は世界一の約1000万斤(6,000トン)で、長崎貿易の輸出量はその半分にも達する状況でした。

伸銅工業の発達

この頃からさらに新しい鉱山が発見されてきますと共に、その加工法も水車を動力としたり、手で叩いて伸す手打ち伸銅と呼ばれる方法が用いられていま した。近代設備による機械化された伸銅工業は明治3年大阪造幣局で蒸気機関を使ってロール圧延を行ったのが最初で、その後造幣廠でも伸銅品の製造が行われ ました。これに刺激されて民間においても機械化による伸銅品の製造が行われるようになりました。

20段仕上げ圧延機

20段仕上げ圧延機

明治から大正年間の伸銅工業は往時の個人企業における創意工夫を土台に、欧米の技術を採り入れると共に、産銅資本の基で大企業の勃興をみたのでありまし た。そして、昭和に入り戦時期の軍需一辺倒の配給統制を経て、戦後の民需の拡大へとつながって行きます。現在は日本の伸銅工業は量的にも品質的にも世界有 数の生産国となり、主な用途も海外では総じて建設向けが主力ですが、日本は電気・電子部品として使われるウエイトが高く、特に最近のIT(情報技術)分野 には欠かせない材料として、世界の電子部品の供給基地としての日本の地位を支えています。

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